例えば、僕は幼少期、両親のケンカを飽きるほど見てきた。
父はお酒もタバコも好きな人でよく母に暴力をふるっていて、ときには救急車を呼ぶことも、数針縫うような大ケガをすることもあった。
僕はよくケンカを止めに入ったし、実際僕が間に入るとほぼ間違いなくケンカは収まった。
きっと、どんな子どもでも似たような行動をとると思う。
いきなり湿っぽい話だけど、別に不幸自慢や同情を誘いたいわけではなくて、今でも自分はあのときとあんまり変わらないんだな、って思うことがときどきあって。
両親のケンカや不仲なんて今どき珍しいことじゃなくて、そういう経験を持っている人は思っている以上にたくさんいると思う。
そのときの僕はどう思っていたかと言えば、「お母さんを守りたい」とか「暴力をやめてほしい」とかそういう感じ。
でも、自分が間に入ることでケンカが収まったり母が助かるのは、嬉しかったと思う。
じゃあ、父を憎んでいたかと言えば実はそうでもなくて、父は僕のことを溺愛していて、いつも一人っ子の僕の遊び相手になってくれていた。
そして、父がなぜ母に暴力を振るうのか?なぜ腹が立っているのか?その気持ちも、子どもながらに痛いほどよく分かっていたと思う。
だから、機嫌が悪い父やピリピリしている父に、僕はよく話しかけたし、じゃれついた。
それはきっと、父に笑顔になってほしかったからだと思うし、母とケンカにならないためだったようにも思う。
結局、子どもの頃の僕は、父にも母にも笑顔でいてほしかったんだと思う。
子どもの願いなんて、きっと誰だってそんなものだろう。
国籍が違おうが、家庭が違おうが、子どもは両親が仲良く笑っているだけで幸せを感じれるものだと思う。
もちろん僕も例に漏れず、だ。
僕は、責めることや否定することが嫌いだ。
責められることにも、否定されることにも、とても弱い。すぐ傷つく。
責めるのも責められるのも、否定するのも否定されるのも、辛い。痛い。苦しい。
だから、誰かに責められている人、誰かに否定されている人を見ると、助けたくなる。
痛みや苦しみが伝播してくるから。
どうにかしてその痛みや苦しみを和らげることができないか、って。
でも、だからといって責めている人や否定している人を憎むか?って言われるとそうでもなくて、同じようにそういう人も助けたくなってしまう。
ネガティブなエネルギーや緊張感、不安感をどうにか癒すことができないか、って考えを巡らせてしまう。
理由はおんなじ。
痛みや苦しみが伝播してくるから。
今でもたまに無意識にそんな風に行動してしまう自分を振り返ったとき、
「ああ、僕はあのときからずっと変わってないんだな」
って。
僕には今、たいせつな人たちがいて、その人たちと愛の輪を広げていきたいと思ってる。
まだまだ身勝手で、認められたくて、弱い弱い存在だけど、小さな小さな愛を樹木を育てるように、大きくしていきたい。
そうやっていつかその樹木の新緑によって、実りによって、したたる雫によって、木陰によって、誰かの安らぎや憩いの場になれれば。
そんな願いを込めたりして。
どうすれば、責め合いや否定がなくなるか?
その答えはまだ模索中だけど、自分がいつも、自分に対しても、人に対しても、世界に対しても優しく在るように努めていきたいな。
それは、自分がいつも選べることだから。
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